考えごと・日記
好奇心は欲望?(それはそうかも)/自分について考えることについて
砂時計を買いました。少なくともじゅうぶんな時間は経過していることを静かに教えてくれるので、大変よいです。
操作可能性/義務/意志/意思、の、有無と割合の不明瞭さ
同じ言葉をつかえる、あるいはそれぞれの違う言葉を一つずつ互いに確かめながら積み重ねてゆくことのできる相手でなければ、よく知ることも、なかよくなることもできないと思っている。
わたしにとっての自我/自己はどこにあるんだろう、とおもいながら梨木香歩(2005、文庫版2008、新潮社)『沼地のある森を抜けて』を読みおえた。
今、次の局面が見えてくるほんの直前にいて、この角を曲がらないと先がどうなっているのか全然わからなくて、進むこと自体をやめてしまいたい気分になる。
最近、風景や食べものの写真に自分のぬいぐるみを収めて、写真に写した過去のなかに自分の痕跡を積極的に残そうとしている。
「わたしはこの世にそこそこ悪が存在していると思っている」と言ってから、でも逆にそんなに悪ないでしょと思っている節もあるなーと。
よく寝て健康になる=適応してしまうことで「適応できて然るべきなわけじゃない」ということを忘れてしまいそうで怖い。
制御できないものに、制御できないところも含めて(制御できないがゆえに?)惹かれてただ見ているの、2023年のわたくしの象徴のようである。
MVだとどうしても映像に目が行ってしまうんだけど、CDを買って、一行目から身につまされている。
繁殖期や交尾を「恋」と言い換えるな、というけど、逆にそれが恋じゃなかったら何が恋なのか本当にわからない。
旅の空に眠る自由より、己の砦に籠る自由が欲しい。
動揺しない魔女になりたい、とおもう気持ちと、動揺から逃れたいだけで本当にそうありたいわけではないかもしれないという気持ち
意図的に低くしていっていたけど、最近は高い声でも喋っているかも。
自分の声、またそれを配信することについて。
この曲が今いてくれてよかった、間に合ってくれてありがとう、とおもいます。
適当な木みたいな存在感でありたいけどそうあることを心の底から望んでいるのではなく、次善の策としてそう言っているのだろうな、わたしは。
人間が人間の人間みを売りものにしてしまうと、ひとが目的ではなくコンテンツという手段になってしまうよね
この正気のなさは今までとは違う気がするのだが(少なくとも発生源は全然違う、とおもう)あらわれ方は何だかんだ近いかもしれない。
福田恒存のアイロニー論から、ブレヒト、ベンヤミン、〈ムーミン〉シリーズのフィリフヨンカのこと。
fineとKnightsがカバーした「スターライトパレード」のMVに寄せて、個人的な思い出と思い入れ。
わたくしも自分にとってのルッキズムの問題をもっとつきつめないとなあと思ったまま一年経ってしまった
連綿と続く時間の区切りを、季節行事という外部リソースでつけられるのは、結構機能的かもしれない。
四半世紀以上現代日本社会で女性として生きているわたしが、オンでもオフでも一切化粧をせずに生活している理由を、思想、生活、規範意識の3点から考察しました。
悪態や差別語を、紙に、歴史に、残すことについて、もっとちゃんと考えたい。
わたしにとっては「(故郷と対比される街としての)東京」ってフィクションだなあという、ラジオのようなつぶやき。
「そもそもわたしは、どうなったら詩歌がわかったことになると考えているのか?」を整理してみた。
わたし個人が、どういうところを問題だと思って出版物の総額表示義務化に反対しているのか、なるべくシンプルに書いておきました。
今まで、詩がわからないなと思って生きてきた。 それでも好きな詩歌の幾つかはあって、ならばわたしのなかには、何らかの詩に対する好みというものがあるはずだ。その「何らかの好み」がどういうものか、自分なりの詩の良し悪しを、そろそろ本腰を入れて培い…