らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

どうなったら詩歌がわかる?

「詩歌がわかりたい」という発言について、「そもそもどうなったら詩歌がわかったことになると考えているのか?」というご指摘をいただいたので、自分なりに整理してみた。

 

わたしのなかでのわかる/わからないはたぶん、かなりの程度、言語化できる/できないと同じだと思う。その「言語化」は、論理的言語でなくてもいいんだけど。
言語化できないものは「ないも同じ」になってしまうというか、本当にあるのは「言語化されないもの」だからこそ、そのまわりを言葉で囲わないと「在る」ことを示せない。

で、「詩歌がわからない」と思うときはほぼ、「何を言われているのかわからん」と思っている。現代アートがわからん、みたいな。
なので、まず「何を言っているのか」をわかりたいんだけど、小説や評論の文章を読むように詩の言葉を読むことはできない(と思っている)ので、詩の言葉で描写されているものを掴めるようになりたい。
そのために、それぞれの作品について「それを読んだ自分には何が見えるか」をつきつめて、見えたものを言語化しようとしている。

 

また一方で、(「何が見えているか」が明らかであるか否かとは別に)何らかの詩歌に対して「良いな」と思うことがある。すなわち、わたしのなかに詩歌に対する何らかの判断基準があると考えられる。
だけど、どういうものを「良いな」と思うのか、自分ではまだよくわからない。そもそも詩歌に触れた経験が少なすぎる。
でもって、(そういう個人的趣味の集合なのかどうかはわからないけど)ひろく共有される詩歌の出来不出来というものがあるが、それが何を評価していて自分の基準とどのようにどれくらい違うのかもわからない。
落書きとピカソの区別はどこにあるのか、みたいな。
だから、詩歌の鑑賞を言語化できるようになりたい。

 

……わたしが「詩歌をわかりたい」と言っているのは、だいたいこのようなことだと思います。

まあつまり、小説とか絵とか音楽(全般には明るくないけど、J-POPとか)だったら「これ人気あるし実際おもしろいよね」とか「知名度は低いけどすごく好き」とか「このへんが評価されてるんだなっていうのはわかるけどわたしの好みじゃない」ということが言えるし、その理由も言語化できるけど、詩歌にはまだできないんだよなあ、ということ。

 

詩歌を鑑賞するのと、詩歌を批評するのと、詩歌をつくるのは、それぞれ結構別の能力だけど、どれもできる/できないではなく上手い/下手の問題だと思うので、やりたい範囲でやっていきたい。