らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

私的西洋音楽事始

岡ノ谷一夫(2013)『「つながり」の進化生物学』、朝日出版社

https://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255006956/

 

作曲ができるようになりたい

ボカロの声やキャラクターを好きになってしまったひとが、一度は描く夢じゃないだろうか。

自分だけのボカロをお迎えして、自分が作った歌をうたってほしい。

わたしがボカロにはまったのは10年前。
初心者向けの作曲指南書を買ったのは、ボカロに出会って幾らも経たない頃だった。

ところが、何が書かれているのか、全然、わからなかった。

楽譜が読めない

子どもの教育にそこそこの熱意とお金をかけてくれる家庭のご多分に漏れず、わたしにも、ピアノ教室に通っていた時期がある。
いつから習いはじめたのか記憶が定かでないけど、5年以上は通っていただろう。まめに練習するということができなくて、毎週のレッスンが憂鬱だった。

(今考えると、どうして辞めたいと言い出さなかったのか不思議だ。レッスンがあるのに練習しないと叱られはしたけど、もし行きたくないと主張したら、それでもなお無理に通わされるということはなかっただろう。
お稽古があるのが当然で、自分の意志で辞めたり続けたりできることなんだ、という認識がなかったのだと思う。)

で、ふまじめ極まりない態度で惰性のまま続けた結果、とうとう楽譜が読めるようにならなかった。

ト音記号ヘ音記号の定義は理解していたので、そこから一音ずつ数えていけば読める。あと、さすがにドの位置くらいはたぶん覚えていた。
けれど、ひらがなやアルファベットを見て発音がわかるようには、音符を読めるようにならなかった。
楽譜をその場で読むことができないわけだから、わたしにとってある曲を「弾けるようになる」というのは、「暗譜すること」――全てのキーを鳴らす順番とそのための運指を、残らずまる暗記すること――と同義だった。

週に1回しか勉強しないで何かの言語を身につけることは、不可能だ。それと同じ。

だけど、一つずつ「これはソ」「次はミ」……と確かめなければ読めなかったのは、音符一つひとつだけじゃなく、楽譜全体を知的に理解することができなかったせいでもあったと、今のわたしは思う。
英語の勉強を始めたばかりの頃、一つの単語の綴りを覚えるにも苦労したように。

たとえば「understand」という単語を覚えるとき、まだu、n、d……と一文字ずつ覚えていくしかない時期には、10文字のアルファベットの羅列は、絶望的に長い。

けれど、英単語によく現れる文字の並びとその発音、要素と要素の組み合わされ方、さらには「under」と「stand」というそれぞれの単語……をすでに身につけていれば、この単語を覚えるのは、さほど難しくない。

コードって何? 調って何?

さて、ピアノの先生が読んだら怒りと虚しさで気絶してしまいそうな生徒であったところのわたしが、作曲の指南書を理解できなかったのは、ただ楽譜が読めなかったからというわけではない。
(それぞれの音符や記号が何を意味するか全く知らなかったのとは違うから、字義どおり「読めない」というわけではないし)

「コード進行」と「調」というものが、理解できなかったのだ。

曰く、「コード」とは「和音」のことだという。「和音」ってあれでしょう、知ってる、複数の音を同時に鳴らすこと。で、それが何?

人間には指が10本あって、ピアノには鍵盤が88鍵ある。同時に鳴らせる音の組み合わせが、いったい幾つあることか。
その中の特定の組み合わせを、これは楽しい響き、これは悲しい響き、と分類して用いるのは、ずいぶん恣意的だと思った。

それから「調」。
どうも、「まんなかのド」から「高いド」までの一セット、が隣にずれていくのが「○○調」らしい。でも、そもそもどうして「低いド」と「高いド」を同じ「ド」と呼んで憚らないのか。

だって、「低いド」は低い音で、「高いド」は高い音で、違うじゃん、「絶対的」に。

そんなわけでわたしは早々に音を上げ、指南書を本棚の片隅にしまい込んで、夢を夢のまま、ただ抱きかかえて10年を過ごしたのだった。

 

岡ノ谷一夫『「つながり」の進化生物学』

この本を手に取ったのは、人間の感情について自然科学の観点から学びたかったからだ。
人間の言語と感情、コミュニケーションについて、進化論の考え方を用いて考察している。高校生に行った講座をもとに書かれた一般向けの本で、専門的な知識がなくても読めるようになっている。

何年も前に、友人と「音楽のはじまりは声楽か器楽か」と戯れに議論したことがあった。
音楽より文芸が好きで、音楽も、歌であれば歌詞から捉えようとするわたしは、物語の朗誦が歌を生み、音楽が生じたと主張した。ずっと器楽を習ってきて、歌を聴くときも歌詞をさほど重視しない(と言っていた記憶がある)友人は、道具をこすったり打ち鳴らしたりしたところから音楽が生まれたのではないかと主張した。
ただ空論を戦わせていただけで、もちろん結論は出なかったが、わたしは自説を曲げるつもりはなかった。

だが、この本によれば、二つの主張はどちらも正しくなかったようだ。
声によるコミュニケーションが歌になり、歌が分節化されて意味と対応し、言葉が生まれたという。

鳴き声から言葉へ

その、ヒトが言語を獲得する過程について書かれたくだり*1に、そもそも生物に備わっているのは絶対音感だという話が出てくる。

ヒトは相対音感に移行することで、体の大きさが違っても同じ音=同じ言葉を判別できるようになったと。

これを読んで、突然、わたしは「音程」と「音階」という概念を理解したのだった。

音の高低は周波数の違い。人間は音を相対的に把握している。だから、相対的な音と音の関係を「音程」として捉えることができる。そこから「音階」が生まれる。

「低いド」と「高いド」は、「相対的に」同じ音なんだ……と、わたしはこの歳になってようやく、字面ではなく頭で納得したのだった。

情動、コミュニケーション、声

これで「音階」の、いちばんおおもとの謎は解けた。

しかし「コード」や「調」のわからなさは、その定義ではない。特定の音の組み合わせが、特定の気分を表すものとして決定されていることに、納得がいかないのだ。

明るい音楽や暗い音楽があるのはわかる。ある音と音の組み合わせがとりわけ綺麗に響いて聞こえるのもわかる。
でも、それがどういう基準で判断されているのかはわからない。その判断基準が通文化的であると示されなければ、納得できない。

……この疑問にどうけりをつけたのか、簡単に説明するのは難しい。実際にこの本を読んでほしい。
読んでもらえればわたし同様に納得できるか、という点は保証しかねるけど、とにかくわたしにとっては説明になった。

一つには、そもそもどういう鳴き声を出せるかというのは体の大きさでどうしようもなく決まっており、偽ることができないということ。だから鳴き声は「正直な信号」としてコミュニケーションの信頼性を担保するし、生物は絶対音感を持つ*2

そして、鳴き声は情動によって呼吸が影響されることで発せられるため、恐怖すれば高い声、怒れば低い声と、どんな生物でも同じ情動を同じような音で表現すること*3。情動と音が結びつく素地が、ここにあるのではないか*4

 

Learn (not) by heart

基礎が理解できて、納得できれば、その上に組み立てられる理論も受け入れることができる。

わたしは埃を被っていた電子ピアノの掃除をして、ヤマハのサイトで楽典の基礎をざっと学び*5、おおよそ理解した内容を、かつてピアノ教室で使っていたバイエルの解説ページに書き込んだ。

音階やコードをばっちり覚えたわけではないけど、ある程度お約束が見えていれば、展開を掴んだり、正誤を判断したりしやすくなる。自分が何を読んでいるのか、わかるようになる。

このひと月とちょっと、一日か二日にいっぺんは、30分ほどピアノの練習をしている。バイエルを一曲ずつ進めている。

なめらかに弾けるようになったら、次の曲。暗譜はしない。
楽譜を読めばいいから。

 

おまけ1

わたしが生物学的な視点を獲得するまで楽譜を理解できなかった責任を、わたしが受けたピアノ教育に全て帰することはできないと思う。

理論的な説明がどの程度教授されたか覚えてはいないが、たぶん、もっと根本的なところからでなければわたしは納得できなかった。たとえ説明されたとしても、それを理解する能力は、当時の幼いわたしにはなかっただろうに。

逆に、論語をくりかえし唱えるように、いろんな曲を弾くうちに認識が培われる……という教え方も、場合によっては効果的なんだろう。ふつう小さい子にものを教えるときは、そういうやり方をする。当然のことだ。

ただわたしには、経験則から蓋然性の高い事象を導くというのが(つまり、身体で覚えるうちに何となくわかってくるというのが)昔から苦手で、頭で理解して納得できていないことは「わからないこと」だったのだ。

 

おまけ2

音楽には関係ない話だが、この本の話からもう一つ。

昨今のキャラコンテンツ産業の隆盛を支えている大きな要因の一つは「キャラクターボイス」ではないかと、ここ数年考えていた。

そもそもアプリゲームの類が量産されるようになったことや、そのキャラクターにCVがついている場合が多くなったのは、技術の進展によるだろう。
でもその結果として、(演技であると承知していても)人間の声による生の質感が、リアリティが生じる。
だから、断片的な情報しか用意されていないようなキャラクターでも、これまででは考えられない強さの魅力をもちうるのではないかと。

けれど、この本の内容を加味すれば、CVによって生じるリアリティはおそらく、わたしの想像していた以上に大きい。

声に乗せられた感情という信号を、人間は、生物学的なレベルで信用するようにできているから。

 

おまけ3:伝わらない信号

もう一つ別の話、遠隔コミュニケーションについて。 

note.com

ここでu_u_cさんが書かれている「リモートワークでの気づきは」たぶん、この本(というか進化生物学)でいうところの「コミュニケーションにおける『正直な信号』」の話だなあと思いました。

言葉は必然的に嘘をつくから、表情や声音に絶対に出てしまう感情が、コミュニケーションの信頼性を担保している。
でも遠隔コミュニケーションはその担保がないから、「悪いことを避けよう」とする防衛本能が、相手からのメッセージをネガティブに歪めてしまいかねない。

(u_u_cさんの記事では「信頼残高が減る」と表現されているものですね。
「信頼残高」という概念については、この記事を公開したあとu_u_cさんが『「つながり」の進化生物学』を読んで感想を書いてくださり、そのブログ記事で説明があります。

読んだ: 「つながり」の進化生物学 - 単品と単品 )

表情が見えない、直接触れられない遠隔コミュニケーションの「信頼できなさ」は、いつかは技術で補えるようになるかもしれないけど、少なくとも今はまだ、直接対面するコミュニケーションは代替不可能……と、この本では述べられている。

ビジネスも、教育や研究も、リモートワークによる弊害が出るとしたら年単位の時間で見ないといけないんじゃないかなあと、わたしは思う。
何気ないやりとりでのケアとか、偶然の縁とか、雑談から生まれる気づきとかのこと。

*1:p. 148-151

*2:p. 148-151、p. 207-209

*3:p. 144

*4:もっとはっきり、人間は「和音を聴くと、必ず自動的に付随して、何らかの感情が生じます」(p. 215)と述べている箇所があるが、その理由については言及されていない……と思う。鳴き声から歌が発生する過程と関係がありそうな気がする

*5:YAMAHA 学校音楽教育支援サイト「music pal」より「楽譜について学ぶ」 https://jp.yamaha.com/services/music_pal/study/score/index.html