らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

トロッコの操作可能性

ジェットコースター、というよりはハンドルのついたトロッコに乗っていて、ただしそのハンドルでトロッコをどのくらいコントロールできる/できているのかわからなくて、今が軌道のいちばん高いところであとはもう落ちるだけに思えて、落ちるのが嫌だからここで途中下車したいきもち。避難用歩行路とかないけど。
ロッコから放り出されないようにアップダウンについていくのが大変すぎて、もういっそ放り出されておしまいにならないかな、あるいはこのハンドルを自分で操作して、平坦な軌道に入ろうとすれば入ることもできるんじゃないか(/入らなければならないのではないか/入る努力をするべきではないのか)というきもち。

操作可能性/義務/意志/意思、の、有無と割合の不明瞭さ。

 

2024/3/21追記

この〔アルベルチーヌと知り合うという〕楽しみが確保されてから、私の知性はそれをじつにつまらないものとみなしていた。しかし私の内部の意志は、いっときたりともそんな幻想など共有しなかった。意志は、つぎつぎと変化するわれわれの人格に仕える、変わることのない辛抱づよい僕である。闇に隠れて見向きもされないが、倦むことなく忠実で、われわれの自我の変遷などは気にかけず、必要なものがけっして欠けることのないようたえず努力している。念願の旅がいよいよ実現することになったとき、主人である知性と感性はこの旅には真にそれだけの価値があるのかと疑い出すが、意志のほうは、そんな怠惰な主人たちもいざ実現しないとなるやたちまちその旅をすばらしいものと考え出すのをよく心得ていて、そんな主人たちが駅の前でえんえんと議論しあれこれ迷うのは放置して、自分はさっさと切符を買い、出発時刻に間に合うようわれわれを汽車に乗せてくれる。知性と感性が移ろいゆくものだとすると、それと正反対で、意志は変化しない。しかし意志はいたって無口で、おのが言い分を主張しないから、ほとんど存在しないように見える。われわれの自我の残りの部分は、意志の断固とした決意に従っていながらそれには気づかず、自分たちの優柔不断だけは明確に知覚している。それゆえ私の感性と知性は、私が鏡に映して空しい脆弱な衣装を見つめているあいだ、アルベルチーヌと知り合いになって見込める楽しみにどれほどの価値があるのかという議論をすでに済ませており、できればその衣装はべつの機会に取っておきたいと思っていたにちがいない。しかし私の意志は、出かけなければならない時刻をやりすごしたりはせず、御者にエルスチールの住所を告げた。かくして賽は投げられ、私の知性と感性はそれを心ゆくまで残念がる時間を手に入れた。かりに私の意志がべつの住所を告げていたなら、知性と感性はずいぶん落胆したことだろう。

プルースト失われた時を求めて』2-2、岩波文庫吉川一義訳)第4巻pp. 489-91)

ちょうどタイムリーだったので。
わたしの意志はあまりにもひっそり隠れているから、就寝を遅らせるなどの行為に結構阻まれてしまっているよ。

失われた時を求めて』を読んでいるとちょくちょくタイムリーな記述にぶつかるんだけど、そうじゃなくて、そのときどきで気になっているところが目に留まっているだけなんだろうな。自我優位の読み方ばっかりしてしまっている。