らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

火を燃やしている

昨日、一昨日と、ろうそくに灯した火を眺める以外のことをしていない。どのくらいしていないかというと、可及的速やかに加熱調理すべきだったさつま芋をひと袋、ビニール袋に詰めたまま放置してぜんぶだめにしてしまった。可及的速やかに対応すべき仕事も打ち返していない(今からやります)(日記書いてないでやれ……労働に行く前に多少は睡眠もしたいし)。*1

fedibird.com

制御できないものに、制御できないところも含めて(制御できないがゆえに?)惹かれてただ見ているの、2023年のわたくしの象徴のようである。
ろうそくみたいに、その気になればきっと消せると思いながら、消すのが惜しくて、燃えているのを見ている。

 

ひとつの作品を生み出すのは、有名になりたいという欲望ではなく、勤勉に仕事をする習慣であるのと同様に、未来を保全してくれるのは、現在の歓喜ではなく、過去にかんする賢明な省察である。ところが私は、すでにリヴベルに着いたときに、障害があっても正しい道を歩ませてくれる論理的思考と自制心という松葉杖をはるか遠くへ投げ捨て、いわば精神の運動障害に陥っていたうえに、アルコールのせいで神経が異様に緊張して現在の瞬間に美点や魅力を感じるようになったものの、その現在の瞬間を守るための私の能力や決意がより堅固になったわけではなかった。というのも私には、現在の瞬間が人生のほかの瞬間よりはるかに好ましく思え、私の昂奮はそれだけをほかの時間から切り離していたからである。私は、英雄や酔いどれと同じで、現在のなかに閉じ込められていた。私の過去は、一時的に覆い隠され、われわれが未来と呼んでいる過去自体の影を私の前方に投げかけることはない。人生の目的を、この過去の夢の実現にではなく、現在の一刻における無上の歓びに置いていた私には、この一刻より先は見えなかった。そんなわけで、これはうわべだけの矛盾にすぎないが、私が異例の歓びをおぼえたそのとき、そしてわが人生は幸せなものになると感じて人生が私の目にはるかに価値あるものに思えたまさにそのとき、これまでの人生で教えられたはずのさまざまな心配ごとから解放された私は、ためらうことなく、いつおこるやもしれぬ事故の偶然に人生をゆだねたのである。

プルースト、吉川一義[訳](2012)『失われた時を求めて』④、岩波書店、pp. 380-1

 

今、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010)を読んでいて(大変おもしろいです、わずかな元気が残っていれば昼休みも移動中も読んでしまうくらい)、刑法ではなく民法が肝要であるのは当然でしょう、というくだりに、やはりそれ自体を肯定する気持ちにはなれないけど(ヒトがreproductionのために設計されているとしても、ひととして生きることがその設計目的を果たすことだとは思わない)、でもこれまでだったら生じていたような感情的な反発が少なくて、今、わたしは結構この世を生きるに足るものだと感じているかも、と気づいてびっくりした。

何故かわれわれは刑法こそを法の代表的なモデルとして考えてしまう。ゆえに法は暴力である、という考えに傾くことにもなる。それは究極的には人民の自由を縛り、罰という名の暴力を揮い、死を招くものだというような観念すらある。しかし、教会法に属していたこれらの管轄事項〔=「洗礼、教育、救貧、婚姻、家族、異端や魔術の禁止、性犯罪、孤児・寡婦・病人・老人の保護、そして信託制度、契約の問題など」〕は、一体何のためにあるのでしょう。生のために。人が人として生きるために。もっと正確に言えば、「再生産」、すなわち「繁殖」(reproduction)のためにあるのです。子として生まれ、子として育てられ、教えを受け、愛を知り、子を産み、子を育て、そしてこの世を去るために――つまり「生きるため」に。「生きるための法」が罰と死を与える法の上位にあるなどということは、当然でしょう。家族法を中心とした体系、それが教会法であり、「上位」にある共通法である。〔中略〕
 「あなたは何を信じていますか」というと皆、無宗教だ、無信仰だと言うわけです。特に日本人はね。あるいはキリスト教徒でも内なる信仰によって神を信じているというようなことを言う。でもこの二つの態度は実は同じく――あとで詳しく批判的に考察しますが――内面の信仰というそれ自体ヨーロッパ的な観念に寄りかかったものに過ぎない。本当は、「自分の子どもが生まれたときに知らせる、届け出る」その「相手」を――他に言い方がないからそう言いますが――「信じている」わけです。信じているというよりも、それによって自ら自身を公共的なものにする、社会的な存在にする、と言いましょうか。中世ヨーロッパだったら教会に行って、祝福されて洗礼を受けて、教会簿に生まれた日付と父母の名前と子どもの名前が「登録」されるわけです。ここで子どもは法的人格を持つ。殺したら殺人になる。独立した人格として、法の内部に庇護されるわけです。私は、こうした機能のなかに何ら疚しいものは無いと思います。ここに反動的だったり保守的だと言って非難すべき点があるとは全然思わない。このようなことが失われていい理由がない。あるわけがない。何時いかなるときでも、絶対に。〔中略〕
 ピエール・ルジャンドルの思考の独創的な核心はここにある。つまり、彼は国家の本質というものを暴力や経済的利益に切り詰めたりしない。国家の本質とは、「再生産=繁殖(reproduction)を保証する」ことである、と言う。つまり子どもを産み育てる物質的・制度的・象徴的な配備を行うことが、国家の役目なのです。一旦そう言われてみると、啞然とするほど当たり前でしょう。だって、子どもを生み育てられなければ端的に絶滅してしまいますからね。こういうことを「少子化問題」と呼ぶということは、すでに問題を卑小化し、最も重要な問題から目を逸らしていることになる。逆に言うと、子どもを生みかつ育てられないような国家の形式のほうこそが、真っ先に滅びるべきだし、われわれが長く語ってきたような意味での「文学」における革命によって転覆されるべきだということになります。こういうことは、ローマ法と教会法の結びつきについて、長く長く実証的な、地道な研究を続けてきた歴史家だからこそ言えることであってね。教会法は再生産の法ですから。それにしても、このようなしごく真っ当かつ革命的な思想を展開する人が、何故かフランスにおいても他の国においても反動だの保守だの呼ばれているんですよ。その理由が私には全くわかりません。こうしたことが何かいけないことなのでしょうか。何がいけないのですか。根拠を示して頂きたいものです。誰かを親として、誰かの子として生まれ、誰かの親になり、誰かを子となす。何の名においてか、こうしたことを反動と呼ぶ人がいるんですね。そう呼ぶのなら、そう非難する人の存在や身体そのものだって反動的ということになりますよ。そういう人だって誰かの子なんでしょう。自分の来し方生い立ちを直視することすらできない、そんな――まあ、これ以上は言いますまい。おそらく――この言い方を繰り返しましょうか。意気地が無くて本が読めないんでしょう。そういう人たちはね。*2

(pp. 137-41)

自分のエゴで自分以外の人間の人生に関与(というかこの場合は人生を付与)するの、あまりにも勝手なのでは……? と思っていたんですけど、人生を「あったほうが絶対良い」と思っていたらむしろ善い行いとみなせるんだなあ……と。その実感が非常にイメージしづらかったのだけど、想像の範疇に入った、のかも?

 

Uni-Birth

Uni-Birth

  • TOKOTOKO/NishizawasanP
  • Anime
  • RON 2.99
  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

OTAKARA ARCA | Album | Discography | TOKOTOKO(西沢さんP)/zawaso Official Website *3

uni-birth
生まれ変わってもあたしがいいと思わないよ
だってさ、過去×今が未来のあたし
待ったなしの一回切りを生きてる
あちらこちら愛しく見えるじゃないか

 

*1:でも今書きながら、メモ帳の終わったページを破いたり、もうしまっていい紙袋を片づけたりできた(仕事はしてない)。やはり日記を書くべきかも。しばらく書いていたのにまたこの2週間ほど止まっている。ところで書きながらまたろうそくも燃やしており、その火に破いたメモをくべたい衝動と必死に闘っている。
……書きながら眠くなってしまって30分くらい机につっぷして寝てしまったのだけど、その間もろうそくをつけっぱなしだった。かなりよくない。時刻も完全に朝になってしまった。

*2:生まれてしまって簡単に死ねないからどうにか生きているのに「生まれてきたくせにreproductionのためにあることを否定するなんて、自分自身を省みてない」と言われても、生んでくれと頼んだ覚えはないんだが、となるが、じゃあ全人類生まれてこなかったほうがよかったと思っているかというと、今のわたしはたぶんそう思っていない……。

*3:この曲、アルバムで買ってミクさんが歌っているのを聴いていたんだけど、もともとぶいちゅーばーのひとに書き下ろした曲のようですね……?(この時代にあってYoutuber/Vtuber文化に全く未参入なためよくわかっていない……)