らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

光の連想

 プロセカやあんスタのMVで、各キャラのライティングが担当カラーになる演出に実は今までそれほど良さを感じていなかった(推しの色でステージが染まるのも嬉しいが、それよりも全体の演出効果を考えてほしい)んだけど、fineとKnightsの「スターライトパレード」MV冒頭の、伴奏に合わせてそれぞれの色のライトが一つずつ当たっていく演出はすごく綺麗で好き。

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 プリズムみたいな、オーロラみたいな、いやステンドグラスみたいな……と連想していって、藤城清治の影絵みたいだと思っているんだと気づいた。
 藤城清治の影絵が、祖父母の家の記憶と結びついている。
 よく遊びに行っていた祖父母の住んでいる土地では(藤城清治の美術館があったからか)信金が配っているカレンダーに藤城清治の影絵を使っていた時期があって、家の壁に大きく貼られていた。綺麗だと言ったら、とっておいて持たせてくれたりしたこともあった気がする。小さい頃は引っ越しが多かったから、今まで住んだどの土地のことも故郷だとは思えなくて、半年か一年にいっぺん遊びに行っていた祖父母の家がいちばんその感覚に近い。それもあくまで、「遊びに行っていた」場所だけれど。
 マグリット《光の帝国》を、あるいはちょうどそんな具合に、空はまだ明るいのに街並みが影になって街灯が輝いているのを見ると、懐かしいような憧れるような、記憶にない場所に焦がれるような気持ちになるのも、懐かしさと影絵のコントラストが結びついているからなんだろうか。いつも、江國香織「デューク」の解説(新潮文庫『つめたいよるに』、解説・川本三郎)で用いられていた「マジック・アワー」という言葉を思い出す。残照の中のつかの間の奇跡。
 ラ・トゥールの描くマグダラのマリアが好きなのも、あるいは同じキアロスクーロに根ざしているのかもしれない。小さい頃、電灯を消した暗い部屋の中にひとりで立っていて、開いているドアから、煌々と明るい隣室とそこで談笑する親しいひとびとを見つめている夢をよく見ていた。ずっと忘れていたけど。
シスレーの風景画も、同じさびしい気持ちで好きだ。あんなに光で溢れているからこそ、きっと、影の中から眩しい気持ちで見つめているんじゃないかと思うのだ)
 それとたぶん、この舞台セットで東京ミレナリオをちょっと思い出している。すごく小さい頃に行ったことがあって、そのときの記憶自体はもうほとんどないのだけど、家のどこかにあるアルバムの中に、写真が残っている。

 

もし故郷が「遠きにありて思うもの」であるとすれば、私の故郷はどこにあるだろうか。東京で生まれ育った私は今もそこに住んでいる。しかし、思い出すべき町並みも、味も、匂いも、言葉さえも、もはやそこにはない。私が遠くに在って思い出したのは、メキシコ市外の溶岩地帯で考えた浅間の火山灰地の踏み心地であり、内蒙古の草原に鳴く秋蟬が呼びさました追分の秋であり、フランス西南部の松林の中で友人と語り明かした夜に甦ってきた信州の雑木林の小径である。故郷とは感覚的=知的な参照基準としての空間である。私にとっての浅間高原は、生涯を通じてそこへたち帰ることをやめなかった地点であり、そこに「心を残す」ことなしにはたち去ることのなかった故郷でもあるだろう。
加藤周一(2009)『高原好日』、ちくま文庫、p. 11)