らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

ルッキズム/自他の視線が交錯する/自分を愛する

(昨日Tumblrに書いたものですが、やっぱりこっちに置いておく)

お洒落をすることが正義だとは思わないし、そうは言わない。

ただ、「今日の私は私の好きな見た目をしている」という意識は、自己肯定感を高める上で、結構わかりやすく武器になる。

だから私は、手っ取り早く自己肯定感を与えてくれる手段として、お洒落を身に着けよう、と思った。「今日の私は私の好きな見た目をしている」という日が1日、また1日と重なれば、少しずつ自信になっていくのではないだろうか。

自信をつけようプロジェクト、始動|芋餡|note

いわゆる美形ではまったくなく、不器量ではあるのだけど、派手髪が似合うこと、背が高めなこと、骨太の痩せ型でスタイリッシュな印象を与えやすい身体つきであることなど、トータルの雰囲気で美しい人に寄せることが可能な容姿は持っており、得をしてきた自覚もある。

思うに、他者に褒められる経験よりも「効く」のは、ショーウィンドウにふと立ち姿が映ったときとか、何気ない瞬間に「あ、今日もイケてる」と思えてきたことだ。日々のポジティブな経験の積み重ねは、ルッキズムが横行するこの社会において、わたしの自己肯定感を高めるのに寄与してきた。それを認めなければならない。

容姿で得をしてきた側・容姿にコンプレックスのない側から語るルッキズム、ぼちぼちやっていきたいですね。

ツイートログ001 - 敏感肌ADHDが生活を試みる

 

たまたま同じタイミングで拝読したエントリがたまたまつながってい(るように感じられ)て、わたくしも自分にとってのルッキズムの問題をもっとつきつめないとなあと思ったまま一年経ってしまったなあと。

今まで化粧しない主義を貫いてこられた要因としては、まず社会に対してずぶとく我が強いこと、次に、(今のところ、わたしが察せる程度には)「化粧してないなんて変」という圧力が、現代日本社会にしては非常に弱い、比較的特殊な環境に身を置いていること、そして、たまたま自分の顔に対してコンプレックスを抱くはめになるようなネガティブな経験をせずに済んできた、ということが挙げられる。

どの要因も自分の意図でコントロールするのは難しいが、特に最後の点については、現代日本社会においては珍しく「もっと他人に評価される顔にしなくてはならない」というプレッシャーを感じずに育ってこられたために、素の状態の顔で闊歩していられるのだろうと解釈していた三浦しをんのエッセイ集『極め道』(光文社文庫、2007)の冒頭2作品を読んでいただきたい。特に巻頭の「正直は美徳か?」では、こんな無礼千万で暴力的なことがあるだろうかというような、全く無関係のわたしからみても許せないエピソードが語られているが、これは極端な例にしても、同じ構図は至るところにある)

見えない闘い――わたしが化粧をしない理由 - らいおんの瓶の中

恩田陸『麦の海に沈む果実』のヨハンくんの「本当にきれいな女の子って傷ついてると思うな」がずっと忘れられないのも、自分のなかのルッキズムの問題に結びついているからなんだろう――わたしは「きれい」なんだろうか、という。

「本当にってどういう意味?」
「うん――たいへんだと思うよ、きれいな女の子でいるのって。目立つし、ちやほやされるし、妬まれるし。そういう中で自分を第三者的に見る目を養うのってけっこう難しいと思わない? どんなに謙虚にしていても、実際自分の容貌が周囲より優れているということは紛れもない事実なんだもの。ただ存在しているだけなのに、その存在が友人を傷つけてしまったり、世渡りの武器になったり、妄想や先入観を植え付けて攻撃されるきっかけになったりするんだから、だんだん用心深くなるよね。そこに辿り着くまでに、いいことばかりではなく相当嫌な思いもしなきゃならない。ただ驕慢に自分の美しさを鼻にかけている女の子ってそういうバランス感覚がない。そういう子って全然きれいだと思わないんだ。その一方で、僕は無垢な美少女っていうのも信じない。ごくまれに自分の美しさに気付いてない子もいるけど、それだってほとんどは演技だ。どこかで分かってるはずさ。自分の美しさに気付かないというのも、ただの無知で、怠慢だよ。自分の美しさに傷つくデリカシーのない女の子って、僕にとってはきれいな女の子じゃない」

『麦の海に沈む果実』(恩田 陸,笠井 潔):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部

(p. 291)

「きれい」じゃない、と判定する(される)ことへの安堵と落胆と抵抗。

わたしは、(自分がそうなりたいという意味ではなく)客体としての「(美)少女」概念に対するフェティシズムをもっている(と自分では思っている)けれど、この「きれいな女の子」((美)少女)という概念への執着は、どうしても100%客体へのまなざしにはならない。「きれい」かどうかはともかく女の子である(あった?)自分への、自分の/他者のまなざしという問題を含んでしまう。

 

そういえば結構(年単位で)前にこちらのブログでも(他者のまなざしによって損なわれていた)自分の外見/身体に対する愛を身につける……というような話をされていた気がするなーと思って探して、見つけられたのは2019年のアドベントカレンダーだったけど、もっと他のエントリでも言及されていたかもしれない。

自分にこんないいところがあったんだね、と、鏡の自分に向かってニコニコできたなら、素直な気持ちで自分の見た目を好きになれる。 自分のことをデブでブスでピンクとか身につけるなんて真の恥知らず、という気持ちで生きてきたからかな、似合う色の、似合う服を選んで手に入れて纏うことは、大きな喜びですね。

この、自らの身体(きれいでかわいくなる可能性を秘めていると信じている)に対する愛には、これまで知らずにいてごめんね、という気持ちが入っているかもしれない。 あなたが素敵だってこと、知らなくて、放っていて、ごめんね。これからもよろしくね。ラブ。

身体を愛する──パーソナルカラー診断2 - 単品と単品

メイクもアクセサリーも、義務でするのではなくて、その魔法で自分が変わることを楽しむと、世界が変わるなあ……と思いました。「もの」を愛するのではなく、ものを装備した「自分」を愛するということ。自分の見た目を愛する、ということ。

変身する前の自分も、慈しんであげたいものですけれどもね!

輝くものたち、と自分 - 単品と単品