らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

見えない闘い――わたしが化粧をしない理由

※以下の文章は、現時点での、わたしがわたしに対して自覚している認識を言葉にしたものです。わたしに対するわたしの認識は今後変わるかもしれませんし、今は気づいていないことに気づくかもしれませんし、論理的あるいは思想的な誤りを見過ごしているかもしれません。

 

わたしはこの文章を書いている時点で四半世紀以上生きているが、オンでもオフでも、日常生活では一切化粧をしない。
その理由を、以下のように考えてきた。

(1)思想上の問題

私見では、現代日本では一般に、高校を卒業したあたり(※)から女性は外に出るときに化粧をするべきとされている、と感じる。
(※普通科の高校以外のルートをとったときにどういう空気、ないし圧力があるのかは、わたしにはわからない)
老若男女問わず成人後は化粧で顔をつくらざるべからず、という社会なのであればまた別だが(そういう社会だったらおとなしく従うという意味でもないが、問題の性質は変わってくる)、「女のひとはふつう化粧をするものだ」という圧力があるのをひしひしと感じるから、わたしは化粧をしない。
制服着用の場でもなければ服を着ていないわけでもないのに、服装に文句を言われる筋合いはないのと同じである。マナーとしての身だしなみなんて、ちゃんとお風呂に入って顔を洗って清潔な服を着ていればよいのであって、化粧まで「身だしなみ」に含むのは求めすぎだと思っている。化粧をしたいひとだけが、自分のやりたいように化粧すればいい。
(昔、バレンタインデーの催事場でチョコレートを売るアルバイトをしたときは、契約時に「これこれこのようにメイクをしなさい」と明文化されたルールを示されたので化粧した。この場合は、拒否するなら別のアルバイト先を探すのが筋だと考える。それ以外にも、たとえば成人式で振袖を着て、そのあと同窓会でドレスを着たときも、ヘアアレンジなどと同じ、装いの一部として化粧した)

(2)生活上の問題

化粧を施した状態で過ごすのは大変である。飲み食いしたり鼻をかんだり汗や涙を流したりするのにも気を遣い、なるべく回避せねばならない。つっぷしたり頬杖をついたりしてもいけない。
それ以前にそもそも、わたしは顔に何かが塗ってある状態そのものにものすごいストレスを感じると、化粧をした数少ない経験から思い知っている。
しかも、ちゃんとした化粧なんて思い立ったら即できるようなものでもない。必要なものを買いそろえるのにも、やり方を習得するのにも、実際に日々化粧するのにも、非常な経済的・時間的コストがかかる(慣れればお手頃なアイテムでささっとできるようになるひともいると思うが、諸コストがゼロになることはない)
というわけで、わたしは化粧をするのも、化粧をした状態で過ごすのも嫌だ。
もし、化粧をして日常生活や仕事の場で過ごしたことがないのに「それくらい何だ」と思うひとがいるなら、実際に自分でやってみればいい。大変だから。大変じゃないと感じたらあなたには化粧が向いているのだと思います、よかったね。わたしには向いていないし、したくもないのだ。

上記2点から、わたし自身は化粧をしないで生活しているが、たとえこの考え方に同意する女のひとがいても、実際に化粧をしないで生活するのは(ひょっとしたら化粧をして生活するよりも)大変だろうと思う。わたしですら、こんなことを書いておいて2、3年もしたら社会に負けて化粧するようになっているかも……と思うのだから。
面と向かって「その歳で化粧をしていないなんておかしい」と言われたことは(記憶から抹消したのでなければ)ないと思うけど(あなたって化粧しないよね、と言われたことはあるけど……「おかしい」の婉曲表現だったのかもな)、大なり小なり変だと思われているだろうな、という気分にはしょっちゅうなるし、たとえば友人と会うにしても(もし本人が気にしていないとしても)こんな身なりに構わない感じの人間が、綺麗におしゃれした友人と一緒にいたら申し訳ないかな、という考えが脳裏をよぎったりする(本当にやだなあと思っていたらごめんね)
わたしが化粧をしないでいることは一種の闘争で、ひとりでやっていて挫けそうだけどやめたくないので、決意表明として、あるいは、自分で自分に言い聞かせるために、あるいは、わたしと直接顔を合わせることのあるまわりのひとたちへの言い訳として、この文章を書いて公表しようとしている。

それでも今まで化粧しない主義を貫いてこられた要因としては、まず社会に対してずぶとく我が強いこと、次に、(今のところ、わたしが察せる程度には)「化粧してないなんて変」という圧力が、現代日本社会にしては非常に弱い、比較的特殊な環境に身を置いていること、そして、たまたま自分の顔に対してコンプレックスを抱くはめになるようなネガティブな経験をせずに済んできた、ということが挙げられる。
どの要因も自分の意図でコントロールするのは難しいが、特に最後の点については、現代日本社会においては珍しく「もっと他人に評価される顔にしなくてはならない」というプレッシャーを感じずに育ってこられたために、素の状態の顔で闊歩していられるのだろうと解釈していた三浦しをんのエッセイ集『極め道』(光文社文庫、2007)の冒頭2作品を読んでいただきたい。特に巻頭の「正直は美徳か?」では、こんな無礼千万で暴力的なことがあるだろうかというような、全く無関係のわたしからみても許せないエピソードが語られているが、これは極端な例にしても、同じ構図は至るところにある)
けれど、それよりももっと積極的に、化粧をしない第3の理由につながっている可能性に気づいた。

(3)わたし自身のもっている規範意識の問題

(これは、わたし以外の誰かが自分自身のことをかわいいと思ったり、そのように表明するのを妨げたいわけでは決してないのだが)どうもわたしは、(少なくとも自分および自分の家族が)自分や身内の顔を誉めることに、反射的に嫌悪感を抱いてしまうらしいのだ。
その理由を考えていて、ひょっとしたら「自分で自分をかわいいと思ったり言ったりしてはいけない」という規範意識が根を下ろしているせいなのかもしれないと思った。
「見目麗しくあれ」という圧力と同居しているのが笑えないが、「自分の美しさを誇るのは恥ずかしいことだ」という規範意識が、まだこの社会には、絶対にある。自分のことを「かわいいね」とひとに言われて、「かわいいでしょう」と返すのは間違いだ、という規範が。
だから、幼い頃から、たとえ親戚などからでも自分の容姿に言及されるたびにどう応じればよいのかわかず、うっかり嬉しそうな顔など見せないように気をつけているうちに、相手の言葉を否定するためのしかめ面や、誉め言葉に気づかなかったふりが習い性になった。そのうちそれは態度だけでなく感情とも一体になり、容姿への言及は気まずい記憶と結びついた。
そうやって、「自分で自分のことをかわいいなんて思わないように、そう思っているようにも見えないように、かわいくあろうとしているように見えないように」という意識を、自分にも、ともすれば自分以外の人間にも求めるようになってしまった。
順当にファッションや化粧に興味を抱いた時期も、小学生の頃などにはあったのだが、「おしゃれするようなキャラじゃない」「女の子ぶる、かわいこぶるのは良くないことだ」と、つとめて「身なりに構わない」「ファッションに疎い」パーソナリティを形成していった。
そのあたりは「『好きな色』の表明」にまで及んでいて、わたしは長らくこれといって好きな色というものはないと思い込んでいたのだけれど、どうも本当はピンクが好きで、でも「ピンクが好き」なのは女の子ぶってて恥ずかしい、と選択肢から除外していたようなのである。
また、長らく何とも思っていなかった自分の声のことも、高校生の頃にアニメっぽい声だと言われて、それからなるべく低く抑えるようになったのを覚えている。

しかし、自分がどういう服装を好きで着たいと思うのかだんだんわかるようになってきて、「かわいいと思う服」を選べるようになった。アクセサリーを身につけることを「恥ずかしい」と思わずに済むようになってきた。今では、ほんのり黄味がかったくらいの温かみのある、淡い桜色が好きだと公言できる。自分の声についても、そもそも自分自身の好みと違っていて変えたいわけじゃなかったのだから、もっとポジティブにつかっていきたいと考えはじめている。
そういうゆっくりと積み重なった変化があって、(3)の理由を認識できるようになったのだろう。
化粧をしないことを、(1)と(2)の理由によって自分の意思が変わらないかぎり選びつづけられるように、(3)の要素を自覚して、できればその点は解消していきたいと思う。

 

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