荒木優太[編著](2019)『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』、明石書店
気になった章からめちゃくちゃな順番で読んでいったので、全頁に目を通したわけではないが、八割から九割は読んだはず。
社会科学・人文科学の分野を中心に、「在野の研究者」(自らを「研究者」をみなさない筆者もいるし、「在野」という概念が問われ返されてもいるが)それぞれが自分の研究スタイルや来歴を書いた事例集。
いわゆる文系分野に偏っているのは、実験やら演算やら(とそのための設備と資金)が必要な自然科学ではやはり在野で個人的に研究するのは厳しいことと、逆に文系では、大学に限らず社会全体に研究職のポストがそもそもたいして存在していないせいと思われる(印象で書いているので数えたら間違っているかもしれないが、その中でも社会科学系では職業と研究分野が重なっている筆者が多く、人文科学では全く関わらない仕事で生計を立てている方が多かったような。世知辛い……)。
「序 あさっての方へ」冒頭、「所属がなくて困ることはたくさんある。書いたものは信用されないし、大学に付属する諸機関は使いにくいことこの上なく、仲間もいなけりゃ自信もない、そしてなによりカネがない。」(p. 3)のくだりで語られる、「無所属」で学会に臨む気分がもう、ありありと想像できすぎて気絶したくなる。
在野研究には明日がない。明日は、労働や育児や家事や病院通いといったもろもろのスケジュールで埋め尽くされているから。生活のルーティンや雑事のせわしなさが優雅(と想像される)研究時間をことごとく奪う。未来の空き時間が一瞬の隙も与えずに現在の係累によって占拠されてしまう。
(中略)
明日はバイトだ。でも、あさっては違う。あさっては必ず途中のまま止まった論文にケリをつける、あさっては図書館に籠って調べものをする、あさっては新しく立ち上げた読書会のメンバーと初めて挨拶をする、あさっては、あさっては、あさっては……。
(p. 9)
ここだけ引用すると「在野では研究などできない」と訴えている本のように見えてしまうかもしれない(実際は、それでもあさってはあるから、あさっての方へ進んでいこう、と結ばれるのだが)。
ただ実際、様々な筆者の状況を読み比べながら、在野の研究でいちばんネックになるのはカネとコネだな……と感じた。それが自然科学の様々なテーマにおけるほど致命的ではないにしても。
文系(特に人文科学)で主にかかるのは、書籍(資料)代と交通費だろう。
文系の学問は本さえあればできるとイメージしてしまいがちだ。たしかにそういう一面(あるいはジャンル)はあって、図書館で無料かつ自由にアクセスできる本もたくさんある。
だが、専門的な研究となると大学図書館などにしかない資料もあるし、その場合は所属している期間がなければ実質的には利用できないこともあるし、利用可能でもお金がかかったりするし、信頼できるジャーナルは今のところたいてい有料だし、そもそも図書館に所蔵されていない資料もあるし……。
それから、調査したり、ほかの研究者に会いに行く(個人的な機会でも、研究会や学会でも)ための交通費もばかにならない。
これらの費用は、たまたま何らかの機関から助成がついたりしないかぎりは、全て自分の収入から捻出することになる。
(反面、研究が生計に結びついていると、それはそれで追いつめられすぎたり、思うようなテーマで進められなかったりする。多くの筆者が、生計と切り離されているからこそ思うまま自分の好きなテーマを追究できるのが「在野」の良さであると語っていた)
そして、自分の研究をほかのひとに見てもらう機会。
研究成果が届きづらくなるという点はもちろんだが、研究を進めていく過程で、ほかの研究者に反論や示唆を貰う機会は、あったほうがいい。
これはアカデミアに所属していなければ決して得られないというものでもないし、ないと絶対に研究ができないというものでもないのだけど、やっぱり、あったほうがいい。
ただ、それでも、編者でもある荒木優太が、こうやって実際に在野で研究を続けている方が次のように書かれていることは、自分を(どちらかというと)「ある種の人々」にカウントしているわたしからしてみれば希望だ。
(前略)三好行雄や浦西和彦や亀井秀雄が――いずれも日本近代文学の大学者である――どんな人だったのか、(中略)私は知らない。そして興味もない。彼らが一生懸命書いた(だろう)テクストだけが残っている。それでよい。
研究のこの荒涼な風景は人によっては物足りなさを覚えるものかもしれないけれど、ある種の人々にはちょっとした慰めでもある。つまりは、(中略)早くも人生が終わっている連中にとっては、書くことはすなわち希望を書くことにほかならない。テクストだけで判断されるときがきっとくる。いうまでもなく、人生が終わっているからいいテクストが書けるのではない。なにをするにしても終わってない人生の方がずっとよい。ただ、もし仮に人生になんの望みがなかったとしても絶対に物を書いてはならないという法はどこにもないのだ。大学が終わったあとでも、人生が終わったあとでも、それでも残るものがある。
(pp. 179-180)
この章の最後の一段落は、実際に本を手に取って読んでほしい。