トーベ・ヤンソン〔著〕、小野寺百合子〔訳〕『ムーミンパパの思い出』、講談社青い鳥文庫、2014(原著1950)
(『ムーミン谷の彗星』、『たのしいムーミン一家』、『ムーミンパパの思い出』とムーミンシリーズを初めて読んでいて、基本的にいろんな要素がどれも好ましいんだけど、以下はそのなかで珍しく好ましく感じなかったところについて書いています)
この巻になって突然、ムーミンぼうやだけでなく今まで家族への言及が一切なかったスニフや、自由でなければ生きていけないスナフキンまでもが、自分の父を父であるというだけで慕い尊敬している描写に貫かれていてびっくりしてしまった。
しかも、ムーミンパパ、ロッドユール、ヨクサルがそれぞれの伴侶と出会って本篇主人公たちの父になる旅の終着点が、「王さま」が支配する島という。
王さまというものは、まったく特別なものですね。えらくて、高いところにいて、近づくことができないんです。ふつうわたし〔ムーミンパパ〕は、人のことなんか感心しませんさ。(フレドリクソンだけは例外かもしれません。)しかし王さまというのは、自分をべつに小さくしなくとも、尊敬することができる相手なんです。これはすてきなことではありませんか。
(青い鳥文庫、p. 160)
玉座を見あげる瞬間は、ほんとに厳粛で重々しいものです。トロールはだれにでも、なにか見あげるものが必要なんです。(そりゃもちろん、見さげるものも必要ですがね。)その見あげるものとは、尊敬することができて、しかも高貴な感じをうけるものでなければだめです。
(青い鳥文庫、p. 172)
ムーミンパパの回顧録(「思い出の記」)という体裁をとっているから、ロッドユールはもちろん(って言ったらロッドユールがかわいそうだけど……)ヨクサルに対してもわりと批判的というか、「見さげるもの」にカウントしているのではないかとまで思ってしまうような書きぶりになっている*1。それなのに、読み聞かせられているスニフやスナフキンにとっては、父が父であるというだけで大活躍しているように見えているらしい……突然の家父長制礼賛回だった……。
『たのしいムーミン一家』を読みはじめたときは、『ムーミン谷の彗星』での様子を見るかぎり到底ムーミン谷に定住するようには見えなかったスナフキンが当然のように一緒に暮らしていてびっくりしたけど、終盤で、こんなに楽しく過ごしていても孤独という自由を求めずにはいられないんだと旅に出たところに非常に憧れたぶん、スナフキンにも(今も元気に生きている)父母が存在しているというところからしてショックが大きかったというのはある。
ところでムーミン谷のみんなが冬眠している間はスナフキンは旅に出て、春になったらまた戻ってくるらしいけど、ムムリクは冬眠しないんだろうか。ムーミン谷で過ごした冬の間も、スナフキンだけはひとりで起きていたのだろうか。