らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

諦めたくないことがわからない

梨木香歩(2005、文庫版2008)『沼地のある森を抜けて』、新潮社

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 ――そういうことはすでに考えたことがあった。あらゆる思想や宗教や国の教育システム、そういうものが、自分を乗っ取ってゆく可能性について。もっとわかりやすく洗脳、といってもいい。あるいは、すでに乗っ取られている可能性について。自己決定、ということが幻ならば、せめて、自ら、自分はこの「何か」に乗っ取られてもかまわない、そう決断することが、最後に残された「自己決定」なのではないか、と。(p. 472ページ)

 

今年の目標は「諦めたくないことを諦めない」なのだけど、二月現在、「諦めたくないこと」が何なのかわからなくなっている。
「義務よりも自分の意思/意志に向きあってみたい」と所信表明しているのだけど、自分がどうしたいのか全然わからない。望みと意志が対立しているようにおもう。これが複数ある人格(結局のところ比喩的な言い方ではあるが、自分のなかにある複数の価値体系をそう呼んでいる)の対立と捉えるべきか、現在の自分とかつての自分との間のそれなのか、どこかに欺瞞あるいは把握間違いがあるのかもわかっていない。

 

そして今、読みおわって、生きること、生まれることに向かって生きていくために生まれるなんていやだよー……という気持ちだ。

どうしてこんなにこういう結論に抵抗感があるのか(この本ではもはや愛とすら呼ばれないが、わたしはこのタイプの結論を「愛エンド」と呼んでいる)、思うに(それ以外にも、個人的な経験などの理由はあるけれど……むしろ経験から導き出されている?)わたしは、思考と論理の積み重ねによって「自然な(とされる)こと」に抗ってゆくのが自我である、とみなしている、みなしていたのだ。なのに、もしかして「自分はこの『何か』に乗っ取られてもかまわない」という主観的な感じられこそが自分の望みなのだろうか、そして、ひょっとして自分の望みというものを大事に思ってもいいのではないか、と考えはじめている。そのどちらが正しいのかわからない。