らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

野村麻里「ひとりで食べたい」第1回(ウェブ平凡)

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 果物が好きで、よく「来年はもう〇〇を食べられないかも知れないから、ちょっと高いけど買って食べた」とか「来年も〇〇を食べたいなあ」、「また〇〇を食べたいから生きていたい」と言っていた。
 そんな言葉はなにか、願掛けのようにも聞こえた。また〇〇が食べたいから、私はきっと来年も生きると思うよ、という風に聞こえた。

去年一年(特に秋頃まで)、来年どこで何をしているかわからないまま過ごしていて、そして(ある程度は、それゆえに)それでも来年は来て自分も生きているだろうということが信じられなくて(先の見通しがつかないという状態は人を殺しうるらしい)、「次にまた同じ季節が巡ってくるかどうかわからないから」と春/夏にしかできないことをこの春/夏のうちに片っ端からやっていた(ぼくが生きるのにつきあってくれた友人各位ありがとう)。

今また次の局面が見えてくるほんの直前にいて、この角を曲がらないと先がどうなっているのか全然わからなくて、そしてもうあんなにいっしょうけんめいな良い時間は巡ってこないのではないかとおもうと、進むこと自体をやめてしまいたい気分になる。

 

 彼女は実家暮らしで、一度も就職というものをしたことがなかった。絵を描くのが好きで以前はイラストの仕事もしていたが、近年はバイトで日銭を稼いで暮らしている、いわゆるパラサイト的な、ニート的な人だった。それが癌になってからひとり暮らしを始めた。家族が嫌だ、一緒に暮らしたくない、というのがその理由だ。しかし父親が高齢なこともあって、実家の近所にアパートを借り、以前よりもたくさん働くようになった。
 そんな友人の行動が私は奇妙で仕方がなかった。家賃に払うお金があれば、治療費に回した方が良いのでは? とずっと思っていた。実家から5分の距離で、数日に一度は実家に戻るひとり暮らしに一体、何の意味があるのだろう? と。

春休み(春休みがあるんです、今年は。今後当分ない可能性が高い)の間に延々めんどくさがっていた病院に行くかー……と思っていて、もし自分の余命と金銭を天秤にかけることになったらどうするだろうという考えが、ちょうど脳裏をよぎっていた(悩めるということがすでに恵まれすぎているのも、実際に直面したら一も二もなく生に縋ろうとするのかもしれないこともわかっているけど、今のわたしがいる地平はそこではないのだ)(昨年春、十年ぶりくらいにまともな健康診断を受けて、視力と体重と血が足りてない以外は特に問題なかったので本当にそれだけなんだろうけど)*1

しかしなぜ、彼女はあんなにもひとり暮らしをしたかったのだろう。
 家族への不満だけでなく、家の構造上、自室にクーラーがつけられないので夏は地獄である、といった物理的な理由もしきりに言っていたけれど、ただ人に気兼ねなく、好きなものを好きに食べて暮らしたかったのかも知れない。
 彼女は一見、気ままに生きているように見えたけれど、一方で礼儀とか常識といったものに敏感で、家族や周囲に随分、気兼ねしているようにも見えた。いやまあ、人は社会に生きている以上、誰もが好き勝手には生きていない。

雪舟えま『たんぽるぽる』あとがきの一節「大人になったら、すきな人と暮らして、すきなだけお菓子を食べて暮らしたいとおもっていた。その夢を今生きている。」が、半年ほど前に読んで以来ずっと忘れられずににいる。

たんぽるぽる 雪舟えま歌集【短歌研究文庫】 - 短歌研究社

誰に気兼ねすることもない自分の家に暮らして、好きなひとたちをお茶に招きたいなあというのが、今いちばんつよい望みかもしれない。

 

ところでこの一年、労働がある日は昼ごはんも夜ごはんもおなかが空ききった状態でひとりで食べるし、早く食事を終わらせて休みたいと思って食べていたから、びっくりするくらい食べるのが早くなってしまった。もともと食べるのも遅いし一度にたくさん食べられないしで、延々と同じ食卓にいるひとを待たせながら食べていたのに。
食べるのが遅いことを許されているというのは、それもまた幸福なことだったのだなと思う。

 

野村麻里(2023)『ひとりで食べたい』、平凡社

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*1:(これは全然違う話で思い出しついでだが)今たまたま梨木香歩『沼地のある森を抜けて』を読んでいて、そうか、それが悲しみであることが、そして悲しみであることを自覚していることがあるのか、とおもった。わたしにとっては、一生解かない問題集が机の隅に積んであるけどやりたい科目じゃないからいい、くらいの気持ちだから(夏休みの宿題をまともに終わらせたことがない人間なので、解こうともせずに済ませられる図太さがあるのです)。

泣いたことは、確かに、自分でも予想外の反応だったけれど、まあ、身に覚えのない悲しみだったわけではない。私は自分の中にその悲しみがあることを知っていた。ただそれに拘泥することをしなかっただけだ。そこまで私を支配する問題ではなかったので。(p. 116)
〔中略〕
振り返ったその女の疲れた顔が、学校から帰ってきた私を認める。私はその日、初めて生理があったのだ。それを知った女の目が侮蔑的に光る。そして――何か――ひどく――傷つけられたのだ。
〔中略〕
 ――思い出した、あんたはこういったのよ。おまえのような不細工な娘は、結婚もできなければ子どもも産めるわけがない。それなのにそうやって体は妊娠の準備をする、って。嗤ったんだ。(p. 146)

梨木香歩 『沼地のある森を抜けて』 | 新潮社

用のない臓器にこんなに物質的にも肉体的にも精神的にもコストをかけさせられるの何なんだろうとも思うが、しかし取り去りたいほどやっていくのが嫌、というわけでもない。たぶんなくなったら今のわたしの感じられ方や考え方もなくなるのだろうなとおもうし(人間のことわりと化学反応だと思っているから)、それを失いたいとは思わない程度には、このハードウェアを含めた今のわたしという(実際には不変ではありえない)ものをわたしであるとみなし、執着しているのだろう。