らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

【批評の座標 第13回】舞台からは降りられない――福田恆存の再上演(渡辺健一郎)|人文書院

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わたしがはっきり福田恒存の名前を意識したのは『ハムレット』の翻訳と、一緒に新潮文庫に収録されていた「シェイクスピア劇の演出」だったので、英文学と演劇のひとというイメージがいちばんつよい。

福田恆存(1912-1994) はいっぽうで、あくまでも舞台上にこだわった。演者の素顔に興味をもたない。というより、人間はつねに何らかの仕方で演戯をしているのであり、素顔などという観念の方に欺瞞があると福田は言うのである。ただしそれは、人間は常に仮面をまとい嘘や虚偽に満ちた仕方で社会生活を送っている、ということではない。それでは仮面の裏に本当の素顔の存在を肯定することになってしまう。〔傍点省略〕

 

今日ちょうど長田弘『メランコリックな怪物』(1979、晶文社)を読了して、末尾に収録されていた中野孝次「「メランコリックな怪物」へのコメンタール」がだいぶブレヒト(とベンヤミン)の話をしていたのでタイムリーだった。

 『ブレヒトとの対話』の最後にベンヤミンはこう書きとめておいた。《八月二十五日。ブレヒト箴言の一つ。「よき古きものにではなく、悪しき新しきものに結びつくこと」。》
 これは単に、財産とか土地とかの有形の目に見える所有関係ばかりでなく、教養、美貌、洗練、知識、社交能力、表現能力など、「文化」と呼ばれるもの自体がすでに幾世代にわたる所有関係の矛盾の痕跡を残していることをはっきり意識して、その上で究極的に「生きている野蛮人の貧困の現在」以外に立つ場所はないというのである。伝統はつねに過去の所有者たちの痕跡を残している。〔中略〕
 従って「古き良きもの」はつねにまず疑わしいと見なければならないのだ。そのブレヒトの不信は徹底している。ベンヤミンも伝統を「瓦礫の堆積」と感じる、ただし『収集家エドゥアルト・フックス』の著者のほうは、過去の秩序の結び目からほどけたその瓦礫に否応なくひかれる資質の持主で、その点がブレヒトとちがい、アンビヴァレンツな関係にあったが。(pp. 155-6)

わかるよ~~~わたしも「英国紳士」という概念に良さを感じてしまうから……

わたしがたぶんフィリフィヨンカに似ているところ、いろんなこまごました物に愛着をもって、それらに囲まれて暮らしたいと願っているところ、それがひいては保守性であるところ……

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 フィリフヨンカのつねとして、彼女もこちゃこちゃした品物を、どっさりもっています。小さいかがみだの、赤いビロードのわくにいれた写真だの、小さい貝がらとか、せともののねこやへムルが、かぎあみのレースの上にすわっているのだの、絹糸や銀糸で、うつくしいもんくをぬいとりしたものや、とても小さい花びんや、ミムラのかたちをしたきれいなお茶道具だの――そう、人生をいっそうたのしくゆたかにし、いっそう危険のすくないものにする、ありとあらゆる品々です。
トーベ・ヤンソン、山室静[訳](2011、原1962)「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」、『ムーミン谷の仲間たち』、講談社文庫、pp. 61-2)

 

 彼女ははじめて、へムルさんがたてたあの家を、ふりかえってみました。それはまえとおなじにたっていました。こわれたがらくたにうずまって。それは彼女がもどってきて、かたづけてくれるのをまっているのでした。ほんもののフィリフヨンカなら、自分の相続した品物をほったらかしてしまうということは、考えられませんからね。
(「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」、p. 86)

そして今日は物への愛着の話もした!

一八八〇年代の市民〔ルビ:ブルジョワ〕の部屋に足を踏み入れたとする。そこにはたぶん、〈くつろいだ気分〉〔ルビ:ゲミュートリヒカイト〕というやつが部屋じゅういっぱいに発散されていることだろうが、それにもかかわらずそのときに最も強く受ける印象は、「ここはお前なんかの来るところではない」というものである。ここはお前なんかの来るところではない――というのもここには、居住者が自分の痕跡を残していないところなど、これっぽっちもないのだ。〔中略〕一八八〇年代の市民〔ルビ:ブルジョワ〕の部屋では、ブレヒトのこの言葉〔「痕跡を消せ!」〕とは正反対の振舞い方が習慣となっていた。そして〈室内〉(Intérieur〔室内装飾〕)のほうが逆に、そうした習慣――居住者自身の意にそうよりも、彼が住む〈室内〉の意にそう習慣――を最大限身につけるよう、その居住者に強いたのである。そうしたビロードづくめの部屋の居住者が自分の家のなかで何かが毀れるたびに陥った、あのばかげた激昂状態をまだ知っている者なら誰でも、このことはよく分かるだろう。〔中略〕その怒りの発し方さえもが、何よりも、「己が地上の日々の痕跡」〔ゲーテファウスト』第二部第五幕、「宮殿の大きな前庭」の場〕を消されてしまった人間の反応にほかならなかった。ところがそこに、シェーアバルトがガラスでもって、またバウハウスが鋼鉄でもって、痕跡を消すということを遂行したのである。
ヴァルター・ベンヤミン、浅井健二郎[訳](1996、原1933)「経験と貧困」、『ベンヤミン・コレクション2』、ちくま学芸文庫、pp. 380-1)

(今デイヴィッド・J・リンデン『触れることの科学』(河出文庫、2019)を読みはじめたところだから、pp. 379-8「ガラスが他の物体の固着を許さない、硬質の滑らかな物質であるのは、いわれのないことではない。加えて、ガラスは冷たくて飾り気のない(nüchtern〔冷徹な〕)物質でもある。ガラスでできている事物は、いかなる〈アウラ〉ももたない。ガラスはそもそも、一切の秘密の敵なのだ」ってところも「おっ」と思った)

フィリフヨンカも、結局は相続したもの全てをすっかり失くして満足していますからね。

 たつまきは、フィリフヨンカからそうはなれていない、岸べに上陸しました。〔中略〕それがあのへムルさんの家の屋根を、しずかにもちあげました。
 フィリフヨンカは、それが空高くのぼっていってすがたをけすのを、その目で見たのです。彼女の家具が、みんなまきあげられて、きえていくのも見ました。灰ざらしき、写真たて、お茶のセット、おばあさまのかたみの銀のクリームいれ、絹糸と銀糸で格言などをぬいとりしたもの――彼女のこまごましたお気にいりの品も、みんな目のまえで天国へとんでいってしまったのです、一つのこらず。
〔中略〕
 フィリフヨンカは、ふかく息をして、つぶやきました。
「もうわたし、二度とびくびくしなくてもいいんだわ。いまこそ、自由になったのよ。これからは、どんなことだってできるんだわ」
(「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」、pp. 89-90)

(『パサージュ論』ちょっとずつ読むって言って読みさしてしまってるのしばらく前に思い出して、気にはしています……毎日ちょっとずつ同じことを進めるというの、そういうふうにやりたいという憧れはあるんだけど、向いてないのかもしれん)

(気になっているといえばはてなブログが90日以上放置されて広告出ちゃってるのも気になってます……というのもあってこっちに投稿しなおしました)

 

それと、「消極的に、もっともひろい意味を込めたつもりでも、一つの名前を選ぶとその名前の規範がはたらきはじめてしまう」という話を今日したから(きっととても恵まれたことに、わたしにとってわたしの言葉は常に最も頼もしい道具であり、武器というのはちょっと違うんだけど、世界をひらいていく最良の手段であったから、自分で選んだ――選ばされた言葉がこれほど自分を四角い箱に押し込めようとしてくることに、苦痛よりも新鮮な驚きを感じている)、そういう意味でもタイムリーだ。

 赤と呼ばれる色には幅があれど、それは「赤」という一語に要約されうる。紅色、緋色などと細分化していっても、その作業に終着点はない。あるいは逆に、使用している言語や色名についての知識の別によって、虹の色が五にも十にも認識されることを考えれば、言語の方が現実を規定しているとさえ言える。われわれは実在と完全に一致する言葉を持ち得ないのであり、何らかの仕方で言葉を自分のもとに引き受けなければならないのである。