らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

悪口に目隠し

 サマセット・モーム『人間の絆』に、主人公フィリップが口を極めて罵られるシーンがある。

「さ、ゾッとさせてやるから、見ろ!」
 そう言って、ちょっと息を切ったかと思うと、一つ鋭く呼吸を吸いこんだが、今度は、たちまち物凄い罵詈讒謗の雨に変った。ほとんど出るだけの声を出して、怒鳴り出した。よくまあそんなにあるものだと思えるほど、次ぎ次ぎと、ひどい言葉が、口をついて出た。あまりにも卑猥な物言いに、フィリップの方が、驚いてしまった。ふだんの彼女は、いつもとかくお上品ぶって、ちょっとした開けっ放しの言葉にさえ、ことさら驚いて見せるような女だっただけに、その彼女が、まさかこんな言葉を知っていようとは、夢にも思わなかった。(中略)
「ええ、ええ、あたしはね、あんたなんぞ好きになったこと、一度だってありゃしないわよ。はじめから、馬鹿にしてやったのさ。なんて下らない。退屈な男、あぶら虫! 大嫌いだった。あたしはね、たとえお金をもらったって、あんたみたいな男に、触られたかない。仕方なく、キスされた時なんぞ、あたしは、胸がムカムカしたもんだわ。グリフィスと二人で、よくあんたのこと、笑ったもんよ。つまりあんたがね、あまりにも間抜けで、頓馬だからよ。間抜け! 頓馬!」
 そしてはまた、物凄い罵詈讒謗になるのだった。とにかく彼の、欠点という欠点は、ことごとく洗い立てた。吝ん坊だと言った。間抜けだと言った。見栄坊のガリガリだとも言った。とにかく彼が、もっとも痛みを感じるあらゆる弱点に向って、それこそ辛辣きわまる毒舌を浴びせかけて来るのだった。やっと立ち上って、行きかけたが、それでもまだ、ヒステリー染みた猛烈さで、あらゆる汚い悪罵をがなりつづけていた。

新潮文庫中野好夫訳を参照、96節)

 ここで具体的に出てくる悪口は「退屈な男」「あぶら虫」「間抜け」「頓馬」「吝ん坊」「見栄坊」「ガリガリ」で、それはそれで酷いのだが、「物凄い罵詈讒謗」、「よくまあそんなにあるものだと思えるほど」の「ひどい言葉」、「あまりにも卑猥な物言い」、「あらゆる汚い悪罵」のほとんどは、ここに直接書かれてはいない。読者はそれぞれ、自分の知識と想像によって、もっとも酷い言葉を思い浮かべるだろう。
 こういうところをさらりとぼかすのがモームの上手さで紳士なところなのかなあと思ったりしたのだが、作者がどう書きたかったかだけではなくて、あまりにも酷い言葉を書いてしまうと出版できなくなる可能性もあるなと、あとから気づいた。

 もう十数年も前のことだと思うが、祖父が(たしか誰かに向かって言ったとかではなく)「ばかだのあほだの……」というような文脈で、ここには書かないけど、今では絶対に誰も言わないし書かない(と思う)言葉をつかっているのを聞いたことがあった。「特定の国・地域出身のひとであること」を悪意をもって指すその言葉が悪口になるということを、今のわたしは絶対に許容しないけど、それがきっとごく一部の極端なひとたちだけじゃなく、普通のひとの口からも普通の悪口として出てくる時代がこの国にあったのだろうということに衝撃を受けた。
 そのとき祖父の口から聞かなかったら、わたしはひょっとしたら、それが悪口として通用する時代があったことすら実感できないまま過ごしていたんじゃないだろうか。「ある属性に対する悪意ある表現が存在したこと」を教えないのは、悪意の再生産を防ぐためには有効なのかもしれない。でも、そういう歴史があったこと自体を覆い隠してしまうのは、過去に対する真摯な反省がない。

 ……こういう、表現の自由言論統制とか検閲とか言葉狩りとかポリティカルコレクトネスとかに関する問題、たぶんその分野があって研究されていると思うんですけど、わからないので、人文社会科学系で信頼できる入門的な本があったら教えてください(フィリップが投げつけられた悪罵と祖父の口にした差別語では、そもそも問題の種類が異なるのだけど)。

 このあたりから当たっていけばいいのかなー……。

内川芳美ほか[編](1974)『講座 現代の社会とコミュニケーション 3 言論の自由』、東京大学出版会

言論の自由 - 東京大学出版会

 さすがにちょっと古すぎるなと思ったらもっと最近の本で同じ出版社から出ているのがあった。気になるなと思いながら表紙を見ていた気がするんだけど読んでない。

歴史学研究会[編](2017)『歴史を社会に活かす 楽しむ・学ぶ・伝える・観る』、東京大学出版会

歴史を社会に活かす - 東京大学出版会