らいおんの瓶の中

手紙を海に流すように、いろいろな感想とか。

遺書、改め、ラブレター

愛を向けられること、向けること

先日、「自分が今死んだら、お葬式に来てくれるひとがいるかなあってたまに考えるよ」という話をしたら、「あなたは自分が思っているより、まわりのひとに愛されているよ」と諭された。
すごくありがたいことだ。ありがたくて、不思議だ。わたしが死んでも、わたしのことを知っているひとたちの生活は何も変わらないと思う(これは拗ねているのでも絶望しているのでもなくて、むしろわたしにとっては救いだ。「自分が死んで世界を知覚できなくなっても、世界は在りつづける」と信じることと地続きだから)。

今年もわたしは誕生日を迎えて、また一つ歳を取った。
おめでとうと言ってくれたり、プレゼントまで用意してくれたりするひとがいる。わたしが生まれたことをめでたいとみなしてくれるひとがいる。すごく不思議だ。

わたしは今、客観的に見てもうちょっと世間様に申し訳なく思ったほうがいいんじゃないの……? というようなふにゃふにゃした立場というか、状況にいる。
それでも「あなたがやりたいようにやって、生きたいように生きていけばいいよ」と言ってくれる友人がいる。存在を肯定されているではないか……と心底びっくりする。

たまたま運のいいことに、親にも祖父母にもかわいがられて、きょうだい仲も良好で、ひとづきあいが苦手なわりに……というよりこれだけ苦手なのに、長く縁を保ってくれている友人も何人もいる。
それが全然当たり前のことじゃないと思うから、いちいちびっくりする。
びっくりするのは、わたしに愛や期待を向けてくれるひとの気持ちがわからないからだ。それがわからないのは、わたしが自分自身に対して愛も期待も抱いていないせいじゃないかと、最近気づいた。

自分が嫌いだとか、絶望しているとかとはちょっと違う。
自分のことが好きかどうかはわからないけど、好きなものがたくさんあって、それを好きだと思う自分の感性は好きだ。
おはなしを書くのを生きがいだと思っていて、またおはなしでなくとも文章や絵や、とにかく何かを作るのが好きだ。
そして自分の作ったものも、出来不出来は別として好きだ(なにせ自分の趣味に合っている)。

好きで、愛している(と、わたしが今感じる)ものが幾つもある。
愛しているとまでは言えなくても好きなもの、は、もっとたくさん。
そして、好きと言うことができなくても、愛しているものも、ある。

 

好きじゃなくても愛はある

「好き」と「愛」は違うかもしれないと思ったのは、本について考えていたときだった。
わたしはわりと本を読むほうだと思う。読書家を自称できるほどではないが、世間一般から見ればたぶん、読むほうだ。
でも、最近めっきり読書量が減って、もう胸を張って「本が好きだ」と言えないなと思う。でも、それでも、本を愛していると思う。
本を読むという営みがあまりにも自分にとって当たり前で、本を読んでこなければ今のわたしはいないし、これからのわたしもない。本と、本を読むことは、わたし自身とわたしの人生の一部だ。だから、本を好きだと言えなくても、本を愛してはいるのだと思う。

手紙や葉書を書いたり、プレゼントを贈ったりするのが好きだ。
便箋や筆記具を選んで、切手やシールを合わせたり、包装に凝ったりするのはもはや、趣味の域に入っている。
手紙でも贈り物でも、内容はもちろん、相手の好きなものや、生活だったり季節だったりをあれこれ考えて用意するのは、時間も手間もかかる。その手間暇は、愛だと思う。
そして、ひとから何か貰ったときも、このひとがこれを渡そうと思ってくれた瞬間、相手のなかに自分が存在したんだなあということにびっくりして、感動する。
どんなにささやかでも、それって愛じゃないだろうか。

対象が、自分のなかに存在すること。自分が、相手のなかに存在すること。わたしはそれを愛と呼ぶのかも。
だったら、自分に対して愛がないわたしのなかに、わたしはいない?

 

愛するもの、愛すること

「本を愛している」というのは、物としての本そのものというより、本を読むという行為、それを支える営みの全体が対象だ。
贈りものに愛があると感じるのも、贈られた物や言葉それ自体ではなく、その行為、そこに込められた心が愛ではないかと思う。

「愛しているものがある」と書いたけれど、わたしはたぶん、物そのものに対して「愛している」という言葉を遣わない。そこには与えられた意味が、文脈が必要だ。

以前「どんなことを美しいと感じる?」という問いに、「こと」に対してはあんまり「美しい」とは思わないかもしれない、と答えたことがある。
美しいと感じる「もの」なら、自然物でも人間がつくったものでもたくさんあるけど、何らかの「こと」を美しいというのは、そこにある(はずの)感情や意志を美しいと感じているんじゃないだろうか。
わたしは、感情とか意志に対しては「美しい」という感覚にならない。なぜなら、人の感情や意志は、そのひとのもので、その内実を本当に知ることはできないから。それを勝手に美しいだの美しくないだの言うのは、傲慢だと思う。「美しい」というのは、知覚したものに対する主観的な価値判断だ。

逆に愛は、ひとの感情、ひとの意思のなかの何かを指している。
それは目に見えない、形のない、五感で確かめることのできないもので、言葉や行為のなかに、そして自分の心のなかに、自力で見出すしかない。

 

私がいる愛、いない愛

よく我々姉妹は仲が良いと言われるし、実際そうなのだろうと思う。
歳が近いから物心つく前からずっと同じ家に暮らしていて、小さい頃からお互いが遊び相手だったのはもちろん、おとな……と言えるかどうかは微妙だけど、成人した今でもふたりで一緒に遊びに行くし、毎日話すし、SNSでもつながっているし、お互いの友人にまで面識があったりする。この先どうなるかはわからないけど、もうしばらくは、そういう関係が続くんだろう。
それでも妹のことを、好きかどうか、愛しているか、正直わからない。
けれど、情はあると思う。愛着と言ってもいい。

わたしは「愛」と「愛着」を厳しく区別したがるけど、この二つは完全に互いに独立しているわけではないのだろうと気づきつつある。
同じ働きの別の側面、というよりは、グラデーションの両端なのかもしれない。一方に己が対象に執着する愛があり、もう一方にアガペー的な愛がある。「愛でる」も「愛おしむ」も「愛する」も、そのグラデーションのかなり広い範囲を含んでいる。

「わたしはこのものごとに対して愛を持っているか?」と自分に問いかけるとき、わたしは、自分のなかの執着の大きさを測っている。……ような気がする。
一方で、「わたしはこのひとに対して愛を持っているか?」と自分に問いかけるとき、わたしは、自分になるべく無私の愛を要求する。……ような気がする。
それはおそらく、人の感情や意志に美を認めまいとする主義と同じ線の上にある。他者に私をぶつけることは、わたしにとっては「ひと」に向けるべき愛じゃないのだ。

じゃあ、対象が「人」と「ものごと」の間――「キャラ」だったら?

いわゆる「推し」のキャラを、わたしは愛していると思う。
そのキャラのおかげで世界の見え方が変わったり、この瞬間のために今まで生きてきたんだと思うくらい幸せになったり、どうしようもない無力感で消えてしまいたくなったりする。そのくらい強く心を揺さぶられる存在のことを、わたしは「推し」と呼ぶ。そして、この感覚は、愛と呼べると思う。
推しのことが好きだ。大好きだ。でも、「好き」と「推し」もまた、わたしにとっては違う。好きなキャラがみんな「推し」になるわけじゃなくて、「大好きだけど推しとは違う」キャラも、「好きという以上に推し」のキャラもいる。
わたしは「愛」と「好き」、「好き」と「推し」を基本的には区別しようとするけど、「推し」と「愛」はかなり近いのかもしれない。
そこには、自分自身がそのキャラに執着する気持ちと、そのキャラの在りようがただそれだけで尊く感じられる気持ちの両方が、同じくらいの強度で含まれている。

 

わたしを生存させる愛

自分に対する愛について考えたとき、いちばん身近で、わたしの対極にあると思うのが妹のあり方だ。人間って、「自分はひとに愛される価値があり、当然周囲から愛されているはずだ」と感じながら生きることもできるんだなあ……と感心する。
もちろん、本人が本当にそう思って生きているのかどうか、わたしにはわからないけれど。
わたしが「わたしは自分に対する愛を持っていない」と言うとき、わたしは自分を「ひと」にカウントして、自分がただ存在することを尊ぶ気持ち、自分が幸いであってほしいと思う気持ちに欠けている、と感じたんじゃないだろうか。

愛のグラデーション全体の根底には、おそらく、対象が存在することへの肯定がある。
そしてわたしは、自分ではあんまりそう感じていないけれど、ある意味での愛なら自分に対して持っているのかもしれない。
グラデーションのもう一端、執着する愛を。

自分に対して愛を向けられるというのは、自分の存在を肯定されることだから、それが自分自身からでも他者からでも、生存に向いている。
でも、純粋にただ自分の存在を肯定する愛を向けることは、誰にでも簡単にできることじゃないと、わたしは思う。……これ、お互いに、そうでないひとの感覚ってほとんど理解できないんじゃないかな。わたしに妹の感覚がわからないように、妹には、わたしの感覚がわからないだろう(妹がそちら側である、という前提が正しければ)。

でも、いくら自分の存在を肯定できないと感じていても、生存をやめることもまた、それほど簡単ではない。自分への執着が、自分をひきとめてしまう。少なくともわたしはそうだった。
そしてその執着も、たぶん愛と呼ばれうるのだ。愛としか呼べないものではないかもしれないけど、愛につながるものなのだろう。

自分への執着が続けさせる生存は苦しい。けれど、わたしは今、少なくとも生存をやめたいとは思っていない。
好きなものと、愛するものがあるからだ。

あらゆるひとが(今生きているひともこれから生まれてくるひとも)理不尽に不幸であってほしくない、と強く思う。幸せを決めることは当事者にしかできないけど、そのための余地が、どんなひとにも保障されているべきだと思う。そのために、一歩でも二歩でも三歩でも、自分にできることをして生きていきたい。それって愛じゃないだろうか。

残念ながら、わたしはわたし自身が現実に関わって実際のものごとを動かすことに向いていないと、自分で思う。
でも、言葉がある。実際の行動にはできないやり方で、言葉にできることがあるはずだと信じている。わたし自身が、誰かの言葉を受け取って今まで生きてきたからだ。現実のやりとりから、そして、本と、本を含むあらゆる作品のなかから。

生存をやめてみようかと思った瞬間にわたしをひきとめたのは、「この感じを書き留めておかなくちゃ」という、わたしの、「わたしの言葉」に対する執着だった。
言葉は常に、受け取ってくれる誰かの存在を前提にしている。わたしは、わたしの言葉を受け取ってくれる誰かがいるはずだと、どういうわけか信じているのだった。

わたしは、ひとがわたしに向ける愛と、わたしがひとに向ける愛に、どうやら生かされているみたいだ。

 

おまけ

考えている合間の脳内BGMは、スピッツ「ハイファイ・ローファイ」と40mP「Sing my love」でした。

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