紹介用のあらすじと話が全然違う、これじゃポール・ギャリコみたいだ(ポール・ギャリコは好きだけど)とおもって、どこがどう違うのか考えたところ、もちろん「やがてシルバーは真実の愛を求めて独り旅立つ――」のくだりなわけですが、正確には(能動的に)旅立ったのではなく(カプリに、そしてイドラ島には旅立っているけど、灯台からは)「放り出された」のだ、というところ以上に、この書き方ではまるで灯台には「真実の愛」がなかったみたいだ。それがいちばん違う。
「でも、そしたらあたしも生まれてませんでした」
「そしてみなし児になることもなかったでしょうよ」
「みなし児になってなかったら、ピューとも会えませんでした」
「大したちがいはないでしょう」
「大ありです。愛があるのとないのとのちがいです」(p. 122)
これはラブ・ストーリーだ。(p. 229)
ロマンス小説ではないけれど。
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でも、相手の人が嘘をついているのかもしれないよ。
関係ないさ。自分が相手に真実でいることだ。
どういう意味?
他人の真実になることは誰にもできないが、自分は自分の真実でいられるからな。
じゃあ、あたしは何て言えばいいの?
どんなときにだね?
誰かを愛したとき。
そのとおりに言えばいい。(p. 99-100)
「愛している(アイ・ラブ・ユー)」
この世でもっとも難しい、三つの単語。(p. 114)
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読んでいて意味がわかった、というよりも、「意味がある」とおもいながら読んでいた。わかるものとしてではない意味、というものが。
日々の雑音のスイッチを切れば、まず安らかな静寂がやってくる。そしてつぎに、とても静かに、光のように静かに、意味が戻ってくる。言葉とは、語ることのできる静寂の一部分なのだ。(p. 252)
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意味があったからです、とわたしが答えると、医師は、うんと言葉を選びながら、それは精神病の一種である可能性がある、と言った。
「意味が精神病ということですか?」
「人生のふつうの状態と引き換えにしてでも意味を追い求める場合、それは精神病と考えられる、ということです」
「わたしには人生にふつうの状態があるだなんて思えないし、そもそも人生にふつうのことが一つでもあるとも思えません。みんなふつうだっていうことにしているけど、本当はそうじゃないんじゃないです」(p. 216)
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そして、わたしの話をしている、とおもった。
もちろんわたしは、灯台の中でお話をねだっているわけでも、一年のふた月だけ人生を生きることで残りを生き延びているわけでも、洗車ショップで一日じゅうあなたを待っているわけでもない、けど……
本当に?
「〔中略〕わたしも人生の窓をコツコツくちばしで叩かれて、これは話を聞くべきじゃないかって」
「鳥が自分に話しかけていると、そう思ったのですか?」
「ええ。あの鳥はまちがいなくわたしに話しかけてました」(p. 176)
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最近、小説を読んでいてもつい自分の話として読んでしまう、行と行の間の空白に自分の話を読みとってしまう。そういう読み方は作品に対して不誠実だとおもっているのだけど、もう、そうとしか読めなくなってしまっているうちはそう読むしかないのかもしれない。
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「これは嘘じゃない」。わたしは自分にそう言い聞かせた。「永遠には続かないかもしれない、でも本当のことなんだ」、と。(p. 234)